アトリエ系建築設計事務所に勤務するスタッフのひとり言

建築について、日々の生活について、感じた事を言葉にする。

一般の人との乖離

先日2日続けて地元の友達と横浜で飲む機会があった

地元の友達は建築関係とは全然違う仕事をしている人達なのだが

いつも周りは建築の人だらけだし

TwitterFacebookもだいたい建築でうまっている

だからいつも地元のの友達と飲む時が

建築以外の人と話す良い機会となっている

でよく感じるのは

だんだんと自分の頭が建築一点に集中しすぎて

一般の人との間に乖離を感じるようになってきたこと

その飲み会で友達に中村拓志の美容室を見せたのだが

美容室である友達はオシャレだと言い

他の友達は落ち着かなそうと言ったり

ある友達は

こういう普通じゃない事をするのは建築家の独りよがりなんじゃないのか

奇抜は事をすればいいみたいな感じなんじゃないの?

みたいな事を言った

正直それを言われた自分は

それは偏見だ!

と一瞬熱くなってしまったのだが

よくよく考えると一般の人にそう思われても仕方ないのかもしれないとも思った

決して奇抜は物を狙って作っているとは到底思えないが

一般の人が見る建築家はそんなものなのかもしれない

奇抜な事をしているように見える

きっとそれは

・作品には見えない隠れた意図を読み取れない

・意図していることは理解できできても感覚的に納得出来ない

という事の2つがあるんじゃないかと思う

なんでそういう形になっているか分からないから

ただ奇抜な物を作ってるんじゃないの?ってなるのと

ガラス張りのトイレのような意図は理解しても感覚的に拒絶するようなもの

後者は理解できるが前者は伝わっていないのが残念である

建築とは最終的には出来た建築物が全てである

プロセスやコンセプトは見る人には説明出来ない

その分コンセプトが建物を一目見たらわかるような作品は強いのである

自分の先生の作品はそういう強さや一般の人にも理解できる気持ち良さが伴っていると思う

自分も1年生の時に藤本壮介の住宅を見て

これの何がいいんだ?と悩んだものだ

そこでやろうとした意図を知れば納得できることもあるのだが

きっと一般の人でそれが伝わるのはごくわずかだろう

まぁそれとは別に自分がだんだんそういう初心が失われ

なにか建物の面白さや良いところばかりを探そうとしていることに気づいた

実際一般の人はそんなこと求めていないのかもしれない

そんな特別なことをする必要はないのかもしれない

相手が求めていることに少しだけプラスαを付け足せるような建築家が

もしかしたら施主といい関係を気付けるのかもしれない

4年生ぐらいの時に自分が思った事を思い出した

新しい物を作ろうと思って作るのでなく

自分が純粋に良いと思うものを作る

そんな当たり前の事を当たり前にできる建築家になりたい

自分の心に嘘をつかず、素直な気持ちを大切にしたい